M女の隠れ家                                            <小説 淫虫−1>


第1話  竹上製薬工業 中央研究所

冷たい雨の降る深夜、交通事故が発生した。
ハンドル操作を誤った車が濡れた路面にスリップして、カーブを曲がり切れずにガードレールにぶつかり、そのはずみで向こう側にある川に車は転落した。
川は道路から10メートル以上も下にあり、そこに車は前から落ちた。
黒い国産の高級車が、前半分がグシャリとつぶれて大破している。
乗っていたのは国内の中堅製薬会社、竹上製薬工業 中央研究所の所長、中沢健次郎(56歳)と研究所員の戸川祥子(29歳)だった。
戸川はどういうわけかシートベルトを閉めておらず、フロントガラスが割れて赤い血が飛び散っている。
頭部を激しくフロントガラスにぶつけており、割れたフロントガラスから真っ赤な血を垂れ流している戸川の頭が飛び出ていた。
戸川は、ほとんど即死だった。
運転していた中沢も、翌日病院で息を引き取った。
このひとつの交通事故が、その後、何人もの女性の運命を大きく変えることになろうとは、この時は誰も知らなかった。

中沢には一人息子がいた。
名前を昭といい、今年26歳。
同じく竹上製薬工業の中央研究所に父親のコネで勤務しているが、母親を中学生の時に病気で亡くし、それ以来仕事に追われてほとんど自分をかまってくれなかった父親のもとで、あまり真面目に勉強するわけでもなく好き放題に生きてきた。
それでも、元々優秀な研究者だった父親の血を引いているせいか、他の同級生と違って真面目に勉強をしているわけでもないのにそれなりの成績を取ることができた。
そういう点では、同級生たちからは一目置かれる存在だった。
昭は父の葬儀の後、しばらくは遺産相続処理など弁護士たちとの調整で忙殺されたが、それから数週間が過ぎ、今は自分ひとりきりになった大きな家の居間でぼんやりとつまらないテレビを見ていた。
悲しみはそれほど湧いては来なかった。
もう十分な大人の男であり、既に母親の死を経験しているので父親の死もいつかは訪れるものだということをうっすらとではあるが自覚していた。

この父親の死で、昭には経済的に何の心配もいらない暮らしが始まった。
竹上製薬工業からの弔慰金や多額の生命保険の支払いなど、億単位のお金が昭に転がり込んできたのだ。
さらに元々の中沢家の資産もあり、昭には一生を遊んで暮らしてもたっぷり余るほどのお金を遺産相続でも手にしていた。
生活するために、また父親のメンツのために働く必要はもうなくなってしまった。
あんなつまらない仕事のために、毎日の時間を浪費するような人生はもう終わりだと昭は考えていた。
だが、それでは何のために生きていくのか、それはまだ昭の頭の中には明確には生まれていない。

父の死後、昭は中央研究所に出勤しなくなった。
無断欠勤を続けているのだ。
研究所でも所長の息子というだけで大した仕事もしないで怠けてばかりの昭を持て余していたため、欠勤が続いても誰も文句を言わなかった。
むしろ、すでに新しい所長が着任した今となってはお荷物なだけの存在であり、これを機にいなくなってくれればというのが研究所のみんなの本音だろう。
周りからはそう思われているだろうということは、昭も感じていた。
だから、いずれは正式に退職願を提出しなければならないだろうと考えていた。

しばらくは自宅の自分の部屋でぼんやりとした日々を過ごしていたが、父親の遺品の整理のためにこれまであまり入ることのなかった父の部屋に足を踏み入れた。
12畳ほどの広さのある洋間に、大きな木製の机が窓を背にして置かれており、壁には一面に備え付けの本棚がある。
中沢は優秀な研究者だっただけあって、本棚には多くの学術書がびっしりと並んでいる。
部屋の中は今は、窓のカーテンが閉じられていて暗く、少しかび臭いような沈んだ雰囲気があった。
ふと、その本棚の横を見ると、その部屋には不釣合いな熱帯魚の水槽が昭の目に止まった。
その水槽の中はちゃんと水が循環しており、そこには何かの生命を維持している様子があった。
「何だ、これは・・・」
昭はその水槽の存在を不思議に思った。
父親は熱帯魚などに興味を持つようなタイプではないことを、昭は知っている。
水温計は36度を維持しており、熱帯魚の水槽にしては高温だ。

水槽を覗き込むとそのガラス面に1〜2センチ程度の小さなナメクジのような生き物らしきものが何匹かくっ付いている。
父の死後、数週間、何も餌を与えられていなかったはずだが、それでもまだちゃんと生きているようだ。
こんな素人目にも分かるほどの高価な水槽なのに、その中にはきれいな熱帯魚ではなくこんな醜いナメクジのようなものを飼っているなんてどういうことだと昭は疑問に思った。
「いずれこれも処分しなければならないな」
昭はそう思いつつ、水槽をそのままにして父の机の書類などを整理し始めた。
郵便物や学術雑誌などをまとめていると、ふと机の端にあった父の日記に気がついた。
濃いグリーンのカバーが掛かっているしっかりとした厚手のノートに、父はマメに日記をつけていたことを昭は知っていた。
その日記が、大きな机の左のまるで定位置のようなところに置かれていた。
その日記を手に取り何気なくペラペラとめくっていると、事故の2週間ほど前の日付に付箋が付いているのに昭は気がついた。
そこには、父の字で研究所での出来事が書かれてあった。
「今日、特別生物課の戸川から新しい実験虫のT−102について報告があった。だが、予想外の性質を持っており、これをこのまま社長に報告することはできない。一旦、このT−102の研究は失敗したと報告し、しばらくの間、家に保管するしかないだろう」
「ほう、この水槽の生き物は研究所のものなのか」と昭は知った。
T−102とは、研究所で使われている開発番号だ。
頭のTは、「TEST」のTであり試作品という意味で、次の10は研究所内で使われている品群番号だ。
最後の2は、2番目の試作品という意味だろう。
日記を読んでいくと、ひとつの記述が昭の興味を引きつけた。
「この実験虫T−102は女性の子宮の中で約10か月間生息でき、その間は100パーセントの避妊効果をもたらす。」

昭は日記に書かれているこの文章に驚いた。
確かに研究所では現在の避妊薬ピルに代わる全く新しい何かを極秘に開発しているという噂話を、聞いたことがあった。
現在、日本で使用されているピルは副作用の心配があり、また毎日飲み続けなければならないという不便さがある。
もっと簡単に避妊効果のあるものが開発できれば、それは画期的な発明であり会社に莫大な利益をもたらすであろうことは昭にも容易に想像ができた。
それがこのナメクジのような虫なのか。

だがこの生物で避妊効果を得ようとする発想は、とても理にかなっており頷けるものだということくらい、いくら怠け者の研究所員でも昭にはすぐに理解できた。
昭和の中頃までは、日本人のほとんどがお腹の中に寄生虫を持っていたものだ。
回虫やギョウ虫、サナダ虫などの寄生虫は、その頃は普通に誰でもがお腹の中に持っており、当時の小学校では定期的に寄生虫の検査のための検便を実施していたくらいだ。
その後の公衆衛生の発達と寄生虫の駆除剤の進歩で、お腹の中に寄生虫を持つ日本人は激減した。
だが、ある著名な学者は、寄生虫とアレルギーの関係に着目し、最近アレルギー患者が増加しているのは寄生虫を持たなくなったからだという説を発表して大きな話題になっている。
その学者は自分のお腹の中にサナダ虫を飼っていて、実際に自分の体を実験台にしてその効果を研究しているという。
寄生虫とその宿主である人間とは、共存の関係にあるというのだ。
同じ発想で、女性の子宮の中に寄生虫を持たせて、宿主である人間の女性との共存関係を作り上げることができれば、寄生虫のアレルギー防止効果と同様に避妊効果を得ることも不可能ではないだろう。

昭は夢中になって日記のページを読み続けた。
この小さなナメクジのような虫は研究所では昭の父親である所長の中沢と、先の交通事故で死んだ研究所員の戸川だけが知っていることになっていた。
中沢所長は以前からいろんな寄生虫を研究テーマとしていたが、ある時、チベットの一部の地域に生息する動物のヤクの雌だけが持っている寄生虫がいることを発見した。
そのヤクの雌の体内を中沢が独自に調べたところ、その寄生虫は雌の子宮の中にだけに生存していることが分かった。
人間の寄生虫の回虫やギョウ虫、サナダ虫を初めとして通常の寄生虫は、動物の腸内で生息し、宿主が食べたものを栄養源として生きている。
だが、このヤクの雌の子宮に生息する寄生虫は、胎盤からにじみ出てくる養分だけで生きているようだった。

胎盤にこの虫が付着することで、その宿主であるヤクの体は妊娠したと勘違いし、さらなる妊娠はもう起こらないという仕組みだ。
妊娠した雌はさらに妊娠することはないというのは、人間の女性であっても同様だ。
避妊リングというものがあるが、あれはプラスチックでできた異物を子宮に入れることで擬似妊娠のような形にし、それ以上に妊娠できないようにする避妊具だ。
この虫はいわばその避妊リングと同じ原理だが、虫は避妊リングのようなプラスチックではなく生体であり胎盤に自ら付着するから、この虫による擬似妊娠はもっと本物の妊娠に近くなる。
しかも虫が自らの動きで膣から子宮内に入っていくため、面倒な手術も不要となり、10か月で寿命を終えて生理の復活とともに子宮から排出されるから、避妊リングのように取り出す時の再手術も発生しない。
避妊リングは子宮口を器具で押し開いて子宮内にリングを入れるから、どうしても出産経験者でないと難しかったが、この虫は出産経験のない女性でも、全く問題なく使える。
出産経験どころか男性経験のない処女であっても、問題はない。
この虫が子宮内にいる10か月間は、完全な避妊効果が得られるとともに、生理もなくなる。
ピルのような薬を毎日飲む必要もなく、薬ではないから副作用の心配もない。
まさに、理想的な避妊方法だ。

中沢はこの寄生虫に遺伝子工学の技術で変異を与え、人間の女性の子宮の中でも生息できるように変えたのだ。
ヤクの子宮で生きている虫を人間の子宮でも同じように生きられるようにするのは、それほど難しいことでもなかった。
この虫が、わずかな環境の変化に対応できるようにするだけのことだ。
そして、なんとその人体実験を研究所員の戸川で行っていたのだった。

さらに日記を読んでいくうちに、昭の父親の中沢所長と戸川が実は愛人関係であったことが分かってきた。
それでこのような秘密の実験を二人だけで行うことができたということに、昭は納得がいった。
だが、日記にあったこの虫が持っている「予想外の性質」とは何かについては、どこにも書かれていなかった。

現在の日本の製薬会社では、いろんな実験生物の開発が世間一般の人に知られないよう秘密裏に行われているというのは、一部の業界人には常識になっている。
その実験生物の中には、とても馴染みの深いものもいくつかある。
例えば、A製薬ではゴキブリの殺虫剤を販売しているが、自社の殺虫剤は効くのにライバルのF社の殺虫剤には強い抵抗力を示すというゴキブリを開発している。
製薬会社が薬を開発しているのではなく、ゴキブリを開発しているのだ。
このゴキブリはもう開発が完成し、世間の人が知らない内にもうとっくに世に出ている。
「世に出る」というのは、夜中にこっそりとこの開発されたゴキブリが街中に放たれることを言う。
このゴキブリが繁殖していくと、A社の製品は効果があるということでよく売れるが、ライバルのF社の製品は効果がないため、売れずに見放されてしまう。
こうしてA社の業績は上がり、市場シェアをF社から奪うことができる。
もうずっと以前から、それは始まっているのだ。

また今、家庭で普通に見るゴキブリも実は10何年も前にA社が開発した強い繁殖力を持つタイプのものなのだ。
それ以前のゴキブリは、この繁殖力の強いゴキブリの出現でほとんどが死滅してしまい、日本ではもう見ることが出来なくなっている。
誰も知らないうちに、ゴキブリの種類が入れ替わっているのだ。
この新しいタイプのゴキブリは、以前のタイプに比べて寒さにも強く、以前は東北地方以北にはゴキブリはほとんど見られなかったのに、今では北海道にまでゴキブリの存在は広まっている。

しかし、この完全な避妊効果をもたらす寄生虫はそんなゴキブリの研究よりも、遥かに人類の幸福に役立つはずであった。
開発が予定どおりに成功していればの話だが・・・。



                                  


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